2018年11月22日

言葉のエネルギー

なんて書くと、まるでスピ系ブログのようですが......笑
実は、ちょっとそれに似た体験をしたのです。

一つ前の記事で、「直接会うコミュニケーションの重要性」への私の雑感を書きましたが、この頃、メール等の文字だけでいただく文章で、その方が言わんとする「本音」がわかるようになってきたのです。
わかる、と言うと、とてもおこがましいですが、たとえば一見ポジティヴな内容のメールであっても、実はその真逆の本音が込められた、その方の生の感情が強く込められた言葉や文章に目がいき、一読して感じてしまうみたいな。「木を見て森を見ず」の、結論の意図を読み違えているわけではなく、その反対で、たぶん的を射ている、というなぜだか自信があります、笑。

その言葉、フレーズ、文章だけが他から浮いているからです。
まるで、その方の声が聞こえるかのように、そこにエネルギーを私は感じているのかもしれません。

しかし、まったくの感情を排した事務的なだけのメールには、やはり、それを感じることができませんし、その方の心は見えてきません。むしろ、見えない、見せないように、事務的な要件のみのやりとりしかされないのかもしれません。

相手とどのようなコミュニケーションを図りたいのか。
私は、過度の忖度にならない、相手を信頼・尊重した「思いやり」を常に大事に、一つひとつのやりとりを心がけたいと思っています。

コミュニケーション

11月も半ばを過ぎました。木々が色づき始めています。

コミュケーションとは、社会生活を営む人間が互いに意思や感情、思考を伝達し合うこと(小学館「デジタル大辞泉」より)。その手段が、最近ますます「直に会わずに済ます方法」へと進みつつあるようで、悲しい思いをしています。

会うことで、互いに得られる情報はとてつもなく大きいのに......発する言葉以上の情報を感知しての伝達と交換の価値に代えられるものはないとさえ思います。電話も、相手が見えるビデオチャットやビデオ会議も、「対面」にはかないません。生身の相手と向かい合わない、何らかのデバイスが仲介する時、相手と自分との間を一種の「ベール」が覆います。そこは必要以上の自分を見せずに済む安心の場なのかもしれません。

時々、会って話している時には何の問題もなく楽しくコミュニケーションしていたかに見えた人が、後にメールやSNSなどでその時の会話について感情的な言葉を返してこられて驚くことがあります。直接会う、話す(電話を含む)場面では出せない自分の生の感情を、「ベール」が隔てた安心の場だと思い切り出せるからでしょうか。

また、昨今は、会社を休む、辞めるといった連絡さえも、SNSで済ませてしまう(中には、連絡なしに、いわゆる「バックレる」若者もいるようですが)人たちもおり、根っこにあるのは、「対面によって生じる感情的対立を避けたい」、「相手との感情のやりとりそのものへの対処に戸惑う(あるいはそれが面倒くさい)」といった「逃避」なのかもしれないなぁと思っています。

良くも悪くも、人とぶつかることを避けて、無難に、穏やかに、波風立てず......。

私は、人間は一生成長を続けていくものだと思っていますし、20代後半から私のテーマは「人間的成熟」にありました。どうすれば、成熟した人として生きていけるのか。自分の未熟さとの戦いを続けてきたと言ってもいいかもしれません。

成長は、生身の人同士の関わりの中からこそ生まれる、と思っています。声、表情、しぐさ、体温......を感じ、時には思い込みや誤解、あるいは良かれと思っての忖度で傷つき、傷つけ、ボロボロになることもありますが、深い感情体験には意味があるのだろうと(体験の度合いにもよりますので、一概には断言できませんが)。少なくとも私に限っては。

経験からの学び。経験をどう捉えるか。

やはり、手段と機会がほんの少しでもあるのならば、相手と直接会って話をする努力をしたいなぁと、私は思います。