ブログを書くということ
長いことほったらかし。
正直、ブログなんてどうでもよくなっていました......笑。
ブログをもっと自分のビジネスツール、商材、PRの場として使うべき! なのでしょうが、「書いて発信して稼ぐ」意図や意識は私にはまったくありません。
ならば、私は、誰に向けて、何のために発信しているのか?
ある時は今の時代に真っ向から逆らうように、ある時は大いなる力の前にひれ伏し流されながらもひたすらに生きることの意味を求め、何らか誰かの役に立ちたいと奮闘している人たちの心に私の言葉が届けばいいなぁとの思い、ひたすらなその思いだけです、動機は。
立ち上げ当初の取材記事を掲載するスタイルから変遷を辿り、いまの「いちぐう」ブログは、「私の心の内の塊をコトバにしてできるだけ正確に伝える鍛錬の場」になっているのかもしれません。
そのブログになかなか向かうことができなかったのは、「発信」という手段が、このところなんともあざとく、即物的なものになってしまったように感じていたからです。
アクセス数・検索上位表示・ページビューなどの数字が全て。そのためのテクニックが重要とばかりに、可もなく不可もないそれらしい記事が量産されている......中身はどうでもよく、発信側の真の別目的にユーザーを誘い込めればOK。
一方で、誰もが気軽に不特定多数に発信ができる時代にあって、気軽なメディアだからと、日記感覚で安易に「書き散らし」て「言いっ放し」ている人を見て、まあ、そういう時代だからとの諦めに似た気持ちを覚えると同時に、伝え表現するという行為があまりに適当に扱われていることに悲しくなってしまいました。
劣化......日常のLINEやFacebook等SNSでのやりとりがメインになってしまっている人たちの多くが、他人に読んでもらう文章をつくることが苦手です。主語と述語がつながっていない、そもそも一文がいつまで経っても終わらず、だから、何が言いたいのか、わからない......など、文章作成の基本の「き」が無い人たちが増えつつあります。
それでも、仲間内ではなんとなくコミュニケーションできてしまうから、伝えるための努力をしなくなってきているのでしょうか。
私は、一般個人であろうとプロの書き手であろうと、発信することには等しく責任と覚悟が必要だと思います。
ところで、この前、ふと気付いたことがあります。
ある人(Aさん)が、責任と覚悟を持ってなされた仕事に対して報酬を支払うとしましょう。
その時、Aさんが決めた報酬額=Aさんの価値観=Aさんが自身に対して払う額(自分自身の価値)なんだなぁと。
とすると、言葉や文章も、結局は自分自身に向けているのと同じ、つまりはブーメランになるのではないか。
私にとっては、表現して発信することには読み手への最低限の敬意と配慮がセット、デフォルト。
読んでくださる「誰か」のことを考えるから、伝える行為に自然と心がこもります。
ならば、せめて、私は自分が受け止められるブーメランを投げよう、自分の足元のことを大事にする書き手、表現者、発信者でありたい......とはいえ、今後も気が向いた時だけ更新のゆるいブログは変わらずですが、ささやかな抵抗をし続けていければと思っています。