2015年7月 2日

情緒、論理、良識

かつては、公に発信することは、それなりの自覚を持ち経験を積んだプロの仕事でした。
現代では、誰もが容易に世界に向けて発信できます。
それは素晴らしいことである半面、結果として、現代には、未成熟で下品な言葉が至るところに溢れるようになってしまったように感じています。

自分の口や手元から放った言葉や文章に「責任」を感じず、とても軽い気持ちで発し、伝え、「だって仕方ないでしょ(気分を害するという言うなら、それは受け取る側が悪い)」と開き直る。

言葉は、意思を伝える道具であり、武器にもなり得ます。

鈍感で冷徹な人が増えたのか?
いや、確信犯なのか? であれば、タチが悪いです。

言葉は人によってイメージするものが異なり、前後の文脈によって、時には表情や間などによってニュアンスが変わるものであり、だから、できるだけ誤解のないよう、少しでも共通理解の幅を広げられるよう、論理的に破綻しないよう、注意をして語彙を選び、文章を練る。
その言葉で傷つく人のないよう、しかし曖昧や抽象に逃げることなく、シンプルでわかりやすく伝えられるよう、常に表現を試されていると、私は思っています。

伝えたい言葉には力があり、命が宿ります。
感受性、気持ち、情緒は大事にしたいと思っています。

しかし、情緒が勝り、感情に呑み込まれては、言葉を投げられたほうは怪我をします。論理だけでもいけません。いかに理路整然とした正論であっても、心に届かないもの(時)もあります。

他人の心に豊かに共感できる「情緒」に、自身が納得して相手を説得できるだけのロジカルな視点・考え方(「論理」)が加わって初めて、「良識」をもった発言になるのではないか、と私は思うのです。

その「良識」が、いま、日本の社会からものすごい勢いで失われつつあることに、暗澹たる思いになります。

良識とは何か。
自分がされて嫌なことは他人にしない、という大原則のもと、まっとうな羞恥心とまっとうな罪悪感を持った「良心」を持つ人のものの見方だ、と私は思っています。

まっとうな羞恥心とまっとうな罪悪感をバランスよくもった「良心」が、犯罪の抑止力にもなり得るのではないか。

『良心を持たない人たち』(草思社)の著者マーサ・スタウトは、「サイコパスは優秀な戦士になれる」と書きましたが、同著で引用されているグロスマン中佐の「危機が訪れると国家は喉から手が出るほど彼らを欲しがる」という一節が、不気味に思い起こされます。

人間を人間たらしめており、我々の社会(コミュニティ)に必要なもの、失ってはいけないもの。
それが「良心」だと思います。