さき子さんの笑顔
ようやく、宮城県南三陸町(旧志津川町)へ行くことができました。
私の鳴子(宮城県大崎市)での定宿「山ふところの宿 みやま」のご主人・板垣さんと古川駅で落ち合い、板垣さんが車で現地まで連れて行ってくださったのです。
さき子さんにやっと、やっとお会いすることができました!
さき子さんとは、以前にこのブログでもお知らせした、同町で漁家レストラン「慶明丸」を営んでおられた三浦さき子さん。アラスカの海からお店の看板代わりに使っていた浮玉の1つが戻ってきたニュースをご覧になられた方も多いと思います。
▲左がさき子さん、右は板垣さん。うれしかった! さき子さんのこの笑顔!!!
さき子さんのことについて書いた過去記事↓
http://www.ichigu-doc.jp/2012/06/2-4.html
全てが失われた町を目の前に、さき子さんの「慶明丸」再開への思いを聞いた時、私は改めて自分は誰のために、何のために仕事をしているのかを突き付けられた気がしました。
▲豊かな恵みをもたらしてくれた静かで穏やかだった志津川湾。戸倉地区は最も高い津波が後ろからと前から押し寄せ、大勢が犠牲になった。8メートルの防潮堤工事が始まっている。
▲周囲が見渡せるほどの高台にある中学校の時計。震災が起こった時刻で止まっている。この中学校の1階にまで津波は押し寄せた。
そこに家々が、町並みがあったことがもはや想像できないほどに変貌してしまった、一面の更地が続く風景。自然の威力のすごさ、おそろしさ、その前には私たちは何て非力なのでしょうか。
大自然の神さま、なぜですか?
つましく肩を寄せ合って自然と共に生きてきた人たちの命が、暮らしが、なぜ、一瞬にして奪われなければいけなかったのですか?
海に向かって思わず、そう問わずにはいられませんでした。
「私はここに住んでるの」
「ここ」とは、津波から逃げた裏山に、バラバラになってしまった地区の人たちを少しでも呼び寄せようとさき子さんが行政に頼んで建ててもらった仮設住宅。
「ばあちゃん(お母さん)と2人4畳半。そこにベッド置いてるから、もう座るところもないのね
今回の地震で津波が来ることを予想したさき子さんの脳裏を、小学校高学年の時に町をおそったチリ津波(1960年)のことがよぎったといいます。
「あの時はね、海の水がずーっとひいて。でも今度の時はそれがあまりないうちに波がきて。しっかり固定されている牡蠣の筏がどんどん川を上って行くのが見えた時はびっくりしたー。それから海の水が一気に引いた時は、『ああ、海の底って平らじゃなかったんだー』って思った。海の底が見えたんだから」
仮設住宅の「談話室」で語り合っていると、何やらさき子さんはかさこそ忙しく台所へ。
「もう何もしないでくださいよ~」
「うん、何もしないよ~」
と、言いながら、手作り白菜の漬物をちゃちゃっと切って出してきてくれたかと思うと、今度はカセットコンロをテーブルの上に出してきました。
家も店も財産も全てを失ってなお、目の前の相手を喜ばせたいと、手づくりのもので精一杯もてなし、豊かさを分け与えようとするさき子さん......。
▲茶色のワカメを出汁に入れると一瞬で美しい緑色に。おばあちゃんたちがつくった白菜と一緒にいただきました。
▲初めて食べたワカメのしゃぶしゃぶ。志津川湾のワカメは最高品質のものだとは聞いていましたが、本当においしかった!!!さき子さんが心を込めてふるまってくださったこのワカメの味、私は一生忘れません。奥はさき子さん手作りの白菜の漬物。
「店で出すのは、ほんと、こんなもの(ワカメのしゃぶしゃぶ)とかね、その日海で獲れたものがあればそれも入れてね。あとは漬けものとごはんとかおむすび。そんなんでいいかなと思って」
店が建つのは、海沿いの道路から1本中に入った、ちょっとわかりにくい場所。しかも、周りはお世辞にもまだ美しいとは言えない未整備の状態です。普通に考えれば、集客はどうするの? もっとわかりやすい場所のほうがいいのでは? いろいろ宣伝の方法を考えるほうがいいのでは? などと言いたくなってしまうところでしょう。
でも、さき子さんの話を聞いているうちに、そんな心配はまったくの無用であることがわかってきました。
「私はね、出て行きたくなかったのに、中学卒業と同時に都会に集団就職で行かなきゃならなかった人たちがここへ帰ってきたときに、寄れる場所をつくりたかったの。前の慶明丸をやっている時から『ここで私がふるさと守ってるんだよー』という気持ちだった」
儲けたいからじゃない。ましてや話題になってちやほやされたいからでもない。
ただ、ただ、ふるさとに戻ってきたいと思う人たちのために、また、慶明丸が好きで、何よりさき子さんに会いたくて、ここに気持ちを寄せる人たちのために"集える場"をつくりたいと言うさき子さん。
いつも謙虚で控えめ。決して饒舌ではなく、言葉を選ぶようにゆっくりと話してくださるその姿に、私は静かに心打たれていました。
「もちろん、おカネは回っていかないと商売にならないからね。でも、もう儲けなんていいの(笑)」
瞬間、私は理解しました。
慶明丸は、さき子さんがやりたい店は、そもそも単なる飲食店ではありませんでした。
明確なミッションがあります。
慶明丸は、みんなの心のよりどころ。
だから、店を再開すれば、自然と人は集まってきます。
全国には、再開を待ちわびる慶明丸の、さき子さんのファンも大勢います。
談話室にはアラスカから戻ってきた、黒い文字で「慶」と書かれた黄色の浮玉が座布団の横に飾ってありました。
「まさかね、もう、びっくりした。ニュースでアラスカに流れついた岩手の高校のバスケットボールのことが放送されていた時、その足元にこの浮玉がちょこっと映ったのを、たまたま知り合いが見ていて、電話くれて。『慶』はね、お父さん(若くしてなくなった旦那さまの名前)の字なのね。これが『明』の字のほうだったら、あんまり...息子の名前だからね。津波で全部無くなった時、一番に思ったのは、『ああ、お父さんに申し訳ない。お父さんとじいちゃんが守ってきたこの家を流されてなくしてしまった。ああ、ごめんなさい』って。だから『慶』の浮玉が帰ってきたのはホントにうれしかった。ああ、お父さん帰ってきたかったったんだねって......」
帰り、談話室を出る時、板垣さんが「慶」の浮玉にそっと触れるのを見て、私も戻ってゆっくりと触りました。そして、自然とこうつぶやいていました。
「お帰りなさい」
込み上げる涙を隠して、私は部屋を後にしました。