2012年12月16日

私が出会ったいちぐう人! Vol.3 異色の米屋、石川さん(3)

DSC00929.JPG▲2011年の収穫祭の様子。 撮影:石川商店

(2)から続く

「やっぱり、地元を大事にしなければ。それが原点だと改めて思ったんです」


2011年11月、石川商店は19年ぶりに収穫祭を開いた。
これまでは千葉県から関東、さらには全国へと「外」にマーケットを広げてきた。

当時、量販店が軒並み立ちはじめたことから、「こだわりの米屋が地元で認知されるのは難しく、ならば外にお客さまを求めて、外から石川商店を知ってもらおうと考えた」と、石川さんは明かす。

それは間違いではなかった。
事実、その後石川商店は時代の後押しもあり成長を続け、今や全国区の高品質米屋として名が知られるまでになった。
だが、平成22年から方向を転換。
「地元への恩返し」と、足元の顧客へのサービスを強化することにしたのである。


収穫祭は地元と産地への恩返し

その2年前からスタッフも増員、オリジナルの情報紙を創刊。2万枚を新聞折り込みしてきたが、ほとんど効果は上がっていなかった。
気が付けば、漫然と情報発信していた。
「お客さまの顔がわからなくなっていた。直接、会わなければいけないと思いました」
商圏を店から半径300メートル以内、配布先は4500~5000軒と決めた。
まずは情報紙の内容をもっと身近に感じてもらえるものに変え、スタッフが顧客と会話をしながら手渡しすることにした。

「現在、君津市は9万人弱。市の3分の2の人口が、うちの店の半径3~4キロに住んでいる。これがうちの商圏。5000軒に狭めて、そこから円を広げていこうと考えました」
遠くの顧客のための店でなく、隣近所の住民のための店に戻るために。

2011年3月11日の東日本大震災。
石川商店が長年取引してきた多くの生産者も大変な被害に遭った。
30年来の産地に恩返しがしたい。しかし、何ができるだろうか。思案する日々が続いた。
宮城県石巻市や仙台市に炊き出し用の米を持参した。放射能除染効果のあるヒマワリの種400キログラムを、福島県仲通りに送り植えてもらった。
ある時、石川商店のブログを見た郡山市内のあるNPO法人の男性から連絡があった。
「福島県内の幼稚園、保育園が震災以降殺伐としている。夏に向けて花が咲いたらきっと子どもたちが元気になるはず」
さらに30キロのヒマワリの種を、50カ所分用意して送った。

"東北の生産者とともに、自身が、店が生かされてきた"
その思いを、今回の震災・原発事故でより強くした。
だから、居ても立ってもいられなかった。

「特に、山形、福島、宮城、岩手、秋田に取引生産者が多いんです。宮城県の南三陸町(旧志津川町)には長年の付き合いのワカメ生産者がいます。神割地区外湾の極上品です。うちのお客さまも毎年楽しみにされているんです」
3~5月の塩ワカメ小袋入り(500グラム)は、常連が待ち望む店の定番人気商品である。

震災後、南三陸町へ行った石川さんは、あまりの光景に絶句した。
「夕方入ったんですが、胃がぐっと押しつぶされるようで......。言葉が出ませんでした」
カメラのシャッターが押せなかった。
宿泊したホテルでは一睡もできず、聞こえて来る波の音はまるですすり泣きのようだった。
震災時、漁師たちは大型船を守るために、沖へ出た。丸3日間帰れなかったと語ってくれた。
だが、彼らは明るかった。
「ワカメは全盛期の3分の1くらいならできるかもしれない。それを復興ワカメとして販売したい!と言ってくれたんです。とにかく、彼らは強い。しっかり前を向いている。ちゃんと目標を持って自分たちの足で歩いている」

ある時は仮説住宅に住む生産者に、店で集めた義捐金を手渡した。
「今年はモチ米が作れそうにない。申し訳ない」
福島のモチ米生産者だった。
津波で祖母と孫を失っていた。
心を打たれた。

それは、もはや支援する側とされる側という関係ではない。
「気持ちの上で彼らと1つになるには、私たちのほうが自立しなければならない」
仮説住宅に住みながら、おおらかな笑い声を上げる被災者を見て、実は被災していないものたちの気持ちの方がすさんでいることを思い知った。

原発事故の影響で、石川商店も風評被害をこうむった。
福島産の黒米・赤米は、秋田県や新潟県の生産者のものに換えざるを得なかった。8~9月に新潟から東北各地を回った。
だが、意外なところにも広がる震災の被害を見ることになった。
たとえば、秋田県は地盤がずれ、田んぼの底から水が抜けてしまい、治水能力を失っていた。
農業生産に絶望する生産者、つくっても販売できないかもしれないと不安を抱える生産者を前に、食の安全とは何だろうと自問自答した。
安全・安心な食べ物を求めるあまりに放射性物質に過敏に反応しすぎる消費者に、売り手はきちんと説明して販売する責任があるのではないだろうか。

その答えの1つが、収穫祭の再開だった。
「今こそ、つくり手・売り手・食べ手がひとつにならなければ」
収穫祭は、東北応援キャンペーンと銘打った。
東北に生かされてきた思いを集まる人たちと共有したいと、春先から考えてきたコンセプトだった。

放射性物質の汚染の不安から、福島産・東北産は全て危険だとして買い控える消費者の不安を払しょくするためにも、生産地の思いを多くの人に理解してもらうイベントにした。
芋煮やモチを参加者に振る舞い、東北の海・山・里のものを販売した。もちろん、これらは石川商店独自に安全性を確認したものばかりだ。
店内外に販売産地の様子を知らせる写真や生産者のメッセージをディスプレイした。

DSCN1529.JPG▲収穫祭には大勢の君津市民が集った。 撮影:石川商店

DSC00935.JPG▲餅つきも。 撮影:石川商店

当日、山形の生産者は現地から駆け付けてくれた。
福島の生産者は参加できない代わりに、色紙を書いて送ってくれた。
「びっくりしました。1人1枚ずつ書いて送ってきてくれたんです」

ひしひしと伝わってきた、福島の有機農業先駆者たちのやるせなさ。それらを君津市の人たちに理解してもらいたい。
イベントの様子は石川商店のブログに載せたほか、Facebookやツイッターでも共有することで、情報は広く拡散した。DSC_0015.JPG▲収穫祭に届いた福島県熱塩加納町の生産者からのメッセージ(2011年) 撮影:林 泉

「テレビで震災の様子は見てはいたが、収穫祭に参加して、とても身近に感じた」
そうした気持ちを、イベント参加者たちに生産者への一言メッセージとして書いてもらった。温かい言葉の花束は、石川商店から生産地に送られた。DSC_0017.jpg▲同じく収穫祭に届いた宮城県南三陸町(旧志津川町)の漁師たちからのメッセージ(2011年) 撮影:林 泉

イベントの効果は意外なところにもあった。
40年間付き合いがありながら疎遠になっていた近所の住民が、久しぶりに顔を見せてくれたのである。会話が弾んだ。うれしかった。

その場にいる全員がつながりを感じる一体感。この感覚を忘れてほしくない。
石川商店は、安全・安心な食を提供するために、これからも変わりなくやっていこう。
「イベントをやって本当によかった」
君津と東北の距離がぐんと縮まった。この君津を起点に、東北とつながっていく1本の線が、この日動き出した。DSC_0185.JPG▲被災地へ贈られた収穫祭参加者からのメッセージ(2011年) 撮影:林 泉

被災地のベテラン農家の技術を活かす場を
米屋である石川商店にとっては、日本農業の将来は自社の行く末に等しい。
原料なくしては成り立たない商売だからだ。
「もうあと5年しかできないよ」
そう言う生産者の声を聞くたびに焦りを覚える。
どうすれば日本の農業を守れるのか? 需要が増えれば、生産量も増えて行くと、これまで出来る限り仲間に取引を持ちかけ、少しでもマーケットを広げてきた。

そして、2011年秋、石川商店は、新たな事業構想を立てた。
「65歳以上の生産者たちが元気なこの10年のうちに、農業ビジネスに参入する」
新規就農を目指す若者たちを育成するための、人材(現役農業者)派遣だ。就農希望の若者たちを、信頼のおける技術力の高い生き字引の現役生産者のもとに送り込み、「雑穀、畑作、水田農業のノウハウ」を実地で学んでもらおうというもの。いわば、インターンシップ事業である。

昨今盛んな、企業の農業参入については否定的だ。
「企業に農業のノウハウはない。だから結局、地元の農業者に頼らざるを得ない。ならば、その地元の力のある生産者に直接若者たちを預けるほうがいい。私たちはそのための会社を立ち上げます」

仮に政府がTPP参加を決めても、関税の全撤廃までは時間がある。その間に、若い力で生産地を拡大していきたいと目論む。そのためにも、若い生産者の育成が先決である。
5年前から構想してきたことだ。
根底にあるのは、「今の農業者をもっと大事にしようよ。彼らに1年でも2年でも長生きしてもらい」との思いである。
諦めつつある現役世代に、少しでも希望を持ってもらい、長く現役世代でいてもらう間に、次世代の農業者をつくり、基盤を整える。
「再生産可能な収益の仕組みを、いっしょに考えていけばいい。それにはまず、やる人がいなければ」

「誰か代わりに農業をやってくれないか」
そう言ってくる生産者も少なくない。
「土地はいくらでもある。だからそこへ若い人たちを送り込んで、その土地のものをうちが仕入れていくことを考えています」

手始めは、地元から。
君津市のJAと手を携え、中核となる若手エコ農産物生産者の育成に着手した。
君津ブランドを世に出したいJAが、地元農業の活性化を進めるにあたり、全国展開する地元企業である石川商店に白羽の矢を立てた。
エコ農産物をつくる若手の中から選抜した人材で勉強会を行い、石川商店が要求する高い基準を満たす君津オリジナルのエコ農産物の栽培基準づくりを開始。

「この君津基準のエコ農産物をつくる生産者には、JAとうちが加算金を払います。生産モチベーションをアップさせ、若者を育てていこうと考えています」
できた農産物はJAが集荷し、石川商店がJAから購入し、全国に販売していく。
高価格帯で販売できる農産物づくりにJAと一体となり取り組み、目指すは生産者・消費者・石川商店の3方良しだ。

そして、2012年秋、地元の7人の若手精鋭農家が作る地域ブランド米「上総千年の米」(5キロ2,625円)がデビュー。「ごはんから世界を救う」をキャッチフレーズに、売上金の一部はアジア・アフリカの子どもたちの教育支援に寄付される。
3.11を経験した日本から世界へのメッセージでもある。
(4)へ続く