2008年12月24日

Vol.2 風景を読む人、廣瀬さん。

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大変永らくお待たせいたしました。
第2回目の「いちぐう人」は、環境デザイナー・東北芸術工科大学准教授の廣瀬俊介さんです。
廣瀬さんとの出会いは2000年頃。前職で農業雑誌『びれっじ』の編集長をしていた頃、岐阜県の古川町(現・飛騨市)へ廣瀬さんがディレクションされた『濁流のあと/アートミーティング/』の取材に行ったことがきっかけだったと記憶しています。
その後、『びれっじ』に環境デザイナーの視点からグリーン・ツーリズムについて連載していただきました。
一貫して「風土」にこだわる廣瀬さんの手法は、景観や環境という言葉で表されてきたものの構成要素を風土の視点からつなぎ直し、今、目の前に見えている風景がそこに存在する「意味」「理由」「関係性」を徹底的にあぶりだすというもの。
その作業を廣瀬さんは「風景を読む」と、呼んでいます。建物や場の設計をするのに写真を撮って記録するのではなく、自身の目で見たものを微細なスケッチに落としていきます。
「自分で描くという行為によって、より深くその場を観察します。描いているときの光の色、強さ、それによる建物の影、植物の色、密度など、気づくことは数多くあります」
大学では廣瀬さんの講義を熱心に聴く学生が多いとか。若者たちが「考える」おもしろさに目覚め始めています。
ものごとのつながり、関係性を考え、自らそれを科学的に読み解きつないでいく。
緻密で地道で本質的な廣瀬さんの独自の考え方・手法がどうやって生れてきたのか?
じっくりロングインタビューで廣瀬像に迫ってみました。

環境デザインとの出合い、そして目覚め。
永田:そもそも、廣瀬さんがデザインに興味を持たれたきっかけは?Petra_Schiffarth-thumb-300x452.jpg

廣瀬:子どもの頃から絵を描くのが好きでした。デザインへの興味はその延長でしょうか。ただ、それを仕事にできたらと考えたのは高校生の時ですね。小学生 の頃から自然が好きで特に水の生き物に興味があり、河や池に行っては魚を捕まえて自分で飼って観察したり、卵を産ませてみたりしていました。ある時、東京 水産大学で教えられていた多紀保彦先生の本を読んでこの方に学びたいと強く思い、たとえば、数の減っている魚の繁殖を研究して保護するような仕事に就きた い、具体的には東京都水産試験場などに勤めたいと望むようになりました。でも、高校に入り理系・文系のクラスを分ける時に、理系の勉強が全くできなくて、 それで一回断念したんです。
写真右:photo by ペートラ・シッファートさん→

永田:断念して、方向を変えた......。
廣瀬:そうです。どうしようかと少し悩みましたけれど。その頃、美術の先生から美術大学に行ったらどうだと勧められたんです。それじゃあ、美術大学で学んでなれる職業ということで、デザイナーかなと。漠然とサントリーとか資生堂とか、広告が面白いなと思っていたので。
永田:そうですか、広告を。
廣瀬:広告デザインとか、グラフィックデザイン分野を目指そうと新宿美術学院という美術系大学の予備校に通いました。その学校の先生と話すうちに......先生といっても芸大の学生なんですけど......「環境デザイン」という分野があると知りました。先生から薦められたのが、日本でも 1974年に出版されたヴィクター・パパネックの「生きのびるためのデザイン」という本でした。それには、社会に対してデザイナーが何をしなければいけな いか、たとえば砂漠を緑化するためにデザイナーには何ができるかなどが書かれていました。そこで、大学に入る前にグラフィックから環境デザインに方向を変えたんです。
永田:じゃあ、その予備校での先生との出合いと、本を紹介くださったことが大きな転換期になったわけですね。
廣瀬:そうですね。自分の好きなことがデザインを通じてできるんじゃないかなと思い、東京造形大学のデザイン学科Ⅱ類環境計画に入りました。デザインは美 術大学で学んで、生態学など環境デザインに必要な他のことは、その分野の専門学校などに通えないかなとか、あるいはそうした研究者の主催する勉強会に行け ば外で学べるかな、そしてそれらをくっつければいいんじゃないかなどと子どもながらに考えて。でも、実際には、専門学校や勉強会に行くでもなく、その分野 の本を読んでいただけでしたが。むしろ大学では、「環境デザイン」を学ぶはずが、生態系について考えていない人たちが教えていたりする状況があり、生態学 的ではないデザイン例ばかり紹介されました。ある時、先生に「それらは環境デザインではないのではないか」と言ったところ、先生も開き直って「じゃあお前 がやれよ」と。「教えろなどと文句を言わず、おまえがやりたいものをやって見せろ」と。そんな風に突き放されて、かえって自分でやろうという気になりました。
一方で、建築とか今専門にしているランドスケープデザインが人間に対して細やかに働きかける部分に惹かれ、環境をデザインするということがとても面白く思えてきて。以降は没頭する感じでしたね。大学卒業時は生態学に関する知識が乏しいまま、会社に入社しました。
もう一つ、大学生になってから、デザインの歴史とかそこに登場する人たちの人生に興味が出てきました。たとえば第二次世界大戦当時であれば、ドイツにでき たデザイン学校がナチスに閉鎖されて教員の何人かはアメリカに亡命せざるを得ず、ところが亡命先のアメリカで彼らの理想が具現化したりといったことがあり ました。そんなドラマの存在を知って気分の高揚を味わううちに、高校で学んだ世界史を通じて断片的に持っていた知識がつながり、学ぶことが非常に楽しくな りました。
永田:人間とか社会とか歴史と、建築とかデザインというのが自分の中で結びついた時に、「面白い」と思えたわけですね。ところで、入社されたのは(株)GK設計(以下、GK設計)でしたよね。それはなぜ?
廣瀬:パパネックの本を読んだ頃、高校の美術室に「デザインの現場」という本があり、「環境をデザインする」という特集にGK設計が掲載されていたんです。
*(株)GK設計:都市景観や都市空間を総合的にデザインする集団。

日本には本当の建築や設計の専門家はいない?
永田:GK設計には何年くらいい?
廣瀬:10年です。
永田:長かったんですね。その間に、どんなお仕事を?
廣瀬:最初は、ストリートファニチャー、つまりベンチとか、バスシェルターとか、サインとか、そういう環境の中の小さな工作物を設計する部署に入ったんで す。工学系の建築科を出ているわけではないのでやっぱり設計力が弱いとは思っていました。だから、身の回りの小さなものから設計できるようになって、順番 に大きなものをやれるようになれば環境デザインに到達できるんじゃないかと思っていました。
永田:設計には工学系と美術系があるということなんですね。
廣瀬:そうです。だから足りないものは、同僚から学んだり、外で学んだり、経験の中で見つけたり。ご想像の通り、美術大学はどちらかというと形を作る、 で、工学系だとたとえばコンクリートの破壊試験だとか、そういうこともしながら工法とか、材料などについて学んできている。お互い一長一短があるんです。
永田:そういう違いによる軋轢は?
廣瀬:幸いにもGK設計は美術出身が多かったので問題なかったですが、他所の会社の人と仕事する際はやはり大なり小なりありました、はい。
永田:なるほど。今の公共建築なんかの分野だと、どちらかというと工学系が強いんじゃないですか?
廣瀬:そうですね......どちらかというと、東大、東工大の方が強いのかな。
永田:ということは、設計の専門家を養成するには、今の日本は非常に中途半端......。
廣瀬:はい。だから、本当に質の高いものが公共建築として採用されているわけではないと思います。それに、たとえば住宅の設計だって厳密に考えれば難しい はずですね。でも生活者として住宅に住み、毎日を送っていれば、住宅は設計できると思いますが、建築家として名前が売れたとたん病院や空港をデザインする ようになるのはおかしい。特殊な用途を持つ建物が果たしてそんなに簡単に設計できるものか、僕には疑問です。

地方で出合った在野の研究者たちのインタープリターに。
永田:GK設計での後半は環境設計に携わられたんですね。

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廣瀬:はい。道路や広場、時には地域の環境計画を手がけるようになりました。たとえば当時、佐賀県鳥栖市にニュータウンが計画されていて、そこに途中から GK設計が入り、より生態学的かつそこで暮らす人にとっても快適で美しい、生活の場としてふさわしい環境となるように原案を見直したこともありました。 ニュータウンの位置する地域の環境条件を調べ上げて、地域全体としての将来構想を描き出し、そこに向かうためにたとえば公共空間を整備するならば、材料、 工法、形態、配置などをどうするべきかまとめるといった作業をしました。
←写真左:photo by 田賀陽介さん



永田:ご自分の方向性・志向を意識されたことは?

廣瀬:はい、ありました。大学で受けた教育の内容がどうしてもヨーロッパ・アメリカ寄りなので、その影響を知らぬ間に受けており、最初はやっぱりヨーロッ パのような、アメリカのようなデザインを志向していたんです。特に僕はアメリカから戻ったランドスケープデザイナーに師事したので、自然にアメリカ寄りに なりました。会社に入って前半は、自分もアメリカ人のようにデザインをしようとしていました。実際、アメリカ人と仕事もしましたし、そういうことに満足も していました。でもそのうち、これは自分が本当に求めていたことではないのでは?と感じるようになっていきました。そうこうするうち、都市部での再開発が 一段落して、GK設計に各地の自治体から景観や環境の構想が依頼されるようになり、地方へ行く機会が増えていきました。
地方へ行けば、いろいろと知恵を使い工夫を凝らした農業土木とか、古い建物に出会います。そこから人間とその場所のより良い関係を学んで、消化して、解釈 して、デザインすることが、恐らく自分が最初に考えていたデザインに近いんじゃないかなと思うようになりました。その頃には大学にいた頃よりも生態学の勉 強をしていましたし、実践を通して身に付いてきたこともあり、また、世の中も「環境」がさまざまなところでキーワードになるようになった。クライアントに も受け入れられるようになっていました。住民参加で作り上げていく仕事の場合も、住民の側から環境や生態学の話が出てくるなどだいぶ雰囲気が変わってき て、僕もそれに後押しされるようにさらに学んでいきました。
また、地域の生態系を調べるとなると、その地域の気象や生物などの分野の研究者に教えを請うことになります。それら各専門分野の原理的なことと同時に、地 域的な変化のある事象とを実地でどんどん経験することができ、それらを自分の中で一つにまとめて認識できるようになったかなと思っています。
永田:現地の研究者にとっても、たとえば自分たちの意見も聞いて地域デザインに盛り込もうとする人がいるというのは嬉しかったというか、当時としては結構驚きだったんじゃないですか。
廣瀬:そうかもしれませんね。
永田:これは、よく廣瀬さん私と話題にすることでもありますが、素晴らしい研究をしている人がいてもその宝を引き出す人がいない、誰かが引き出してつないでいかなければと。
廣瀬:たとえば、一生懸命、毎日虫や鳥のことを調べている人がいても、他の人はそれに興味を持たない。ところが、そこから環境を読もうとすると実にいろい ろなことが読めるんです。鳥よりもむしろ、危機に瀕しているのは人間の健康ではないかとか。次第にそれを他の人へ伝える役として間に入ることが求められる ようになり、自然にそうするようになっていきました。昔からそういう分野が好きだったこともあり、説明を聞けば専門用語が半分ぐらいはわかりますし、なぜ それが人間にとって大事なのかもはっきり言える。だから、彼らの知見を地域社会に活かさなければと。 もう一つ、彼らの、時には切なくなるような思いを、その地域の皆さんのためにつないで活かす。そのことで彼らの気持ちが少しでも報われれば。真剣にその土 地のことを考えて本音でモノを言う人は、地元では偏屈と思われ疎んじられることが多いものです。僕は余所者だから、そうした自分の立場を活かして地域の事 情を客観視しつつ人々をつなぐことができそうだと、次第に気が付いていきました。
永田:確かに、地方や在野の研究者にはなかなか光が当たらないですよね。
廣瀬:そうです。今大学にいるから感じるのですが、彼らの研究成果を吸い上げるだけ吸い上げる、つまりは文献を引用するばかりで実地調査を余りせずに体よく論文を書く、そんな中央の研究者が少なくありません。

飛騨古川で「人間が生きるまち」を知った。
永田:そうした経験を積まれGK設計を退職し、独立を?
廣瀬:僕としては調査にじっくり時間をかけたくても、企業にとっては全てビジネスですから当然費用対効果の面からチェックが入ります。ただ、やっぱり調べ なければその土地のことはわからないし、わからなければ答えも出せない。だから自分なりに綿密な調査の成果をビジネスとして成立させるような方法を考え出 さなければと思ったんです。で、単純に僕個人が一人で働いて無駄を省き、たとえば簡単に外注に出さないなどすれば、それだけでもずいぶん経費が節減できる なと。一人でやった方が、自分が思うようなデザインができるんじゃないかなと。それと、自分の視点の特異性とか仕事の質について自信もついてきていまし た。
永田:独立されてからの肩書きは、「風土形成家」でしたね。
廣瀬:専門化として、自分が何者かをしっかり言えなければならない。だけれどもなかなかピッタリくるようなものがなかった。でも少し見切り発車的にでも しっかりまずは名乗らなきゃいけないなら、特に風土と言う概念を自分がはっきり認識するようになってからいろいろなことが解けてきていましたので、「風 土」を使いたい。「形成」は、英語のデザインとはやや意味の異なるドイツ語のゲシュタルトの和訳なんですけれど、形を作るというのではなくものを成す、も のを成り立たせるという意味です。
永田:独立してすぐの頃はどうでしたか?
廣瀬:デザイン面で小さな仕事をいただいたり、雑誌のイラストレーションの仕事をやったり、文章を書いたり。まあ、あらゆる手を使ってまずは食べていこうと。でも、実際にはお金は出ていく一方でかなり情況は厳しかったですね。それが1年ぐらい続きました。
永田:何がきっかけで、状況が変わったのでしょうか?
廣瀬:ある時、あるプロデューサーの方にお声がけいただき、農水省主催の農村景観をテーマにしたシンポジウムの講師を務めたんです。そこで、シンポジウムに参加していた古川町(現飛騨市)の職員のNさんに会いました。
「古川の町は歴史遺産や自然にも恵まれているけれど、変わりつつもある。これから町がどういう方向を目指していけばいいのか、一緒に町を見て考えて欲しい」
という依頼を受けることになったんです。以降、古川町の「アーティスト・イン・レジデンス」(美術に関わる学生のワークショップを古川町で開催)とかグリーン・ツーリズム実験の企画、環境整備などの仕事をいただきました。
でも、たとえば「アーティスト・イン・レジデンス」の企画は【キュレーション】という分野、グリーン・ツーリズムの企画と言えば【観光】という分野に属し ていて、僕の専門ではありません。環境デザイナーという立場でやれるのではないかなという思いはあったものの確たる自信が持てないでいるところを、逆に古 川町役場の方々から「環境デザイナーのあなたにお願いしたい」ということを言われ、背中を押してもらった感があります。そこで経済的問題の解決と自分の能 力開発が一緒に実現したような。
永田:ちょうど私が出会った頃ですね。
廣瀬:そうです。その前年には山梨県の農村部の環境調査と将来構想とか、同じ頃に世田谷区で区画整理地内の小さな公園の基本設計を手がけたり、六本木ヒル ズの環境デザインの一部に関わったりしていました。それらの経験をさまざまな点から比べることができたことも大きかったです。また、自分が断片的に持って いた経験から来る知識などが、古川町でいろいろな人たちに出会い、彼らを取り巻く人間関係だとか置かれている社会状況だとかを見ながら「人間が生きる 『まち』というのはこういうものかな」と、像が一つになっていったというんでしょうか。
永田:人間が生きるまち。
廣瀬:はい。人間が生まれてから死ぬまでを生きるまち。古川町では最初の年は一度行けば一週間は滞在していました。トータルで延べ3カ月ほど古川町で 生活をしながら地域の日常に触れ、人々の暮らす「まち」はどうやってできあがっているのかが見えてきたと言うんでしょうか。

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▲写真上:『町を語る絵本 飛騨市』(岐阜県飛騨市 2004年)P54,55より。廣瀬さんの微細なスケッチが活きている。

永田:なるほど。人が生活する空間である「まち」というものが、人を通して見えてきたということですね? 外からの視点でものを考えるのと、その地域の人間として改めて内を見たり、内から外を見るのとではおそらく全く違いますよね。
廣瀬:そのうちに地元の方の家に泊めてもらえるようになりました。そこで気が付いたのは、町の人が集まって会合などで意見交換をするんですが、その時より も、たとえば夜、泊めてくださる方のところで一杯飲んでいると近所の人がふらっとやって来て話してくれることや、朝起きた時にその家のご夫婦が話している 地域の事情などのほうがずっとリアルで示唆に富んでいるということ。
永田:確かに、会合とか寄合いがあっても皆さん、なかなか本音で喋らない。
廣瀬:だから、ある時、一人ずつ直接話を聞いてみようと、1集落27世帯全部を一軒一軒回ったことがありました。
永田:廣瀬さんのやり方って、非常に丁寧ですよね。
廣瀬:ただ、批判も結構ありますよ。前職時代は「調査に時間をかけ過ぎている」とか。
永田:多くの場合、「そんなに時間もかけられない、もっと数をこなす方がいいのに」という発想が常にありますよね。適当にそこはこなして、そこそこのものを上げればいいじゃないかと。
廣瀬:仕事ですからね。

たくさん調べてつながりを熟考すれば、因果関係が見えてくる。
永田:廣瀬さんの場合、やはり、一つ一つ自分の中に落とし込むというか、納得しないと前に進まない、進めないところがあるんでしょうか。
廣瀬:はい、多分、子どもの頃からそうだったようで。あんまり頭の回転は速くないんですよ。どうしてそうなのかをよーく考えて、自分が納得できるまでにす ごく時間がかかります。その場所を知るには、物事の因果関係を調べることがとても大きい。因果関係を理解するためには、さまざまな要素を知っていなければ ならない。それら全てが役に立つわけではなくても、たとえば5つの要素しか知らないのと10の要素を知っているのとでは、おそらく後者のほうが一つひとつ の要素間のつながりを発見しやすくなるような気がするんです。僕は、愚鈍かもしれませんが、たくさん調べてそのつながりを熟考します。そうすると、解けて くる。で、僕に解けたことは他の人にもわかりやすく伝えられる論理になっていたりします。
永田:廣瀬さんが愚鈍だとか頭の回転が遅いだとかということは決してなくて、私 はむしろその逆ではないかと。それよりわかったつもりになってああそうなんだと受け流してしまうことの怖さの方が実は沢山あると思うんですよね。「わかる ために」自分の中に落とし込む作業は、誰しも必要だと思います。むしろ、そういう廣瀬さんの姿勢が学生さんに伝わるから、彼らも考えること自体を面白がる ことができるのでは?
廣瀬:そういう気はしますね。同僚に建築の歴史を教えている先生がいまして。僕の授業を受けた学生の感想に、西洋建築史の授業と共通する点があるといった ことが書かれていたので、彼にその感想を見せたんです。そうしたら、「ありがとう」と言った後に彼がこう伝えてくれました。「あなたの授業に対する学生の 感想は非常にしっかりしている。私の授業だと『○○の空間は美しいと知った』といった程度。どうしてこんなに考えるようになるのかな」と。
永田:今ふと思ったんですけど、廣瀬さんご自身が考える時のプロセスを、学生たちに伝えているからじゃないかと。
廣瀬:「これはこういうものだから」と押し付けるのは僕自身嫌いですし、それじゃわからない。だから絶対にそういう説明をしないようにしているんです。

環境デザイナーという仕事の重要性、必要性を社会に認知させたい。
永田:古川町でのお仕事の時には、地元の方々や専門家の人たちと協働されましたよね。地形や気象、植生などを調べ上げて。あれは本当に素晴らしかった、あんな良い地域計画はないなと今でも思っているのですが、あの作業は、廣瀬さんご自身も楽しかったのでは?
廣瀬:はい。こちらが「こういうことをやるべきでは」と町役場の方々に提案すると、「確かにそれは大事だ」と答えてくれましたし、報酬の面でも充分でし た。財政規模の小さい自治体予算の中でよくがんばって費用を準備してくれたなぁと思います。一緒に動いた研究者たちも、面白いことをやろうと意欲的でした し、面白いことができそうだと感じてくれていたようで。古川町で理想的な環境の調査や計画の立て方を一度試みて、前例、実績をこの国に残そう、そういう 思いで協力してくださった方々がいらっしゃったので楽しめたのだと思います。 
永田:その後、古川町のように納得のいくお仕事というのは?
廣瀬:古川町では、総合計画「朝霧立つ都」に沿って、その後役場の担当の方々が森林環境保全のための所得保障制度とか水田環境交付金という独自の制度を 作り、行政的にそれを継承・発展してくださっています。ただ、僕が思い描くような環境や社会像というのは、まだまだ実現していません。他の地域にも言える ことなのですが、計画や構想は立てたけれどもなかなか実現できないところが多い。福島県のある町の国道の拡幅に伴う環境整備もそうです。3カ年地域を調べ て、地元の人たちと情報を共有して、地域を読む冊子を作り、道路の設計もそれに即して、空間の造形までは行える計画を立てました。ここまでは非常に満足し ているんですけど、実際にはその計画は実現していません。でも、どちらかといえばそれが普通です。
今ようやく、僕が思ってきた生態学的環境デザインはこれだと言えるような仕事と箱根で巡り会えました。それは、ある企業の研修施設の外構設計の仕事なので すが、放置生産林の植生回復を基本目標として進めています。報酬面でも条件面でも本当に素晴らしい仕事をさせていただいています。竣工は来年6月の予定で す。ただし植生回復が目的ですから、工事が終わった時点で完成ではなく、その後も植生の回復状況を調査して管理方針を毎年立て変えながら7年くらい見守っ ていきます。
永田:そういうお仕事が来るというのも、人のご縁からでしょうか?
廣瀬:そうですね。知人を通して紹介してもらうことが多いです。最近は、特に建築家の方が、緑豊かな環境だからそこに庭を造るのではなく、森の中に建物が あるようにしたい、森の扱いを一緒に考えてくれる人はいないかということで、私を指名してくださるようになってきました。
永田:なるほど。風土形成家という肩書きを付けて、誰もやっていない、自分が志向する世界を追求されてきた。他に廣瀬さんの見方とか考え方で仕事を進める人がいなかったことが、廣瀬さんを貴重な存在にしたのかもしれませんね。
廣瀬:僕も同じようなことをやっている人はいないものかと思って探していた時期もありました。けれども、たとえばそうした志向をもった個々の分野における専門家はいても、全体をつなぐ人はいなかったですね。
永田:新しい分野なのでしょうか?
廣瀬:ヨーロッパとか アメリカには、かなり前からそういう専門家がいました。たとえばドイツでは道路を通す時、必ず経済的な理由と環境的な理由の両面からルートを幾案か検討し て、専門家がきちんと地元住民に説明して地元住民と一緒に案を選ぶ。工法も地元の木材とか石材とか、あるいは生きている植物の根を活かして土止めをした り。ただ、日本には独特の風土性があり、近代以前の要素がまだ残っているところもあります。だから、同じようなことをやるにしてもアメリカやヨーロッパと はまた考え方や方法が違ってくると思います。土着の宗教とかいろいろなことが関係してきますから。

 

旧常葉町_現田村市.JPG▲写真上:廣瀬さんのスケッチ。福島旧常葉町(現田村市) 2003年

永田:これからは廣瀬さんのような志向性や役割を持った環境デザイナーが増えてくる可能性はあるのでしょうか。
廣瀬:そうですね......うーん、やっぱり、こういう仕事が必要だということを、僕も、僕の周りにいる人たちも、もっと社会に向かって発信していくこ とが大事だなと思います。それにはきちんとした労働報酬が支払われるビジネスになるんだということを社会に認知してもらわないと。それとやっぱり、法律に 対してもっと働きかけをしないといけません。
永田:具体的にはどういう法律が?
廣瀬:まず思い浮かぶのは、国土利用計画法をはじめとする土地利用に関連したいくつかの法律です。このままずるずると経済至上主義に即して土地が乱開発されていけば、それこそ、人々の言う持続可能な環境の保持ができなくなります。また、これら国土利用計画法から都市計画法までに至る法律群には縛りがあるようでほとんどどうにでもなるようなところがあります。たとえば建物の高さなども規制しているようで、実はどこを見てもバラバラ、グチャグチャ。それは単に、見えがかり、景観の問題だけでなく、その建物の下を歩く人や近くに住む人への心的圧迫ですとか、建物の寿命が来た時の処理ですとか、いろいろな問題があると思うんですよね。コンクリートやアスファルトで固められた道路や建物に地表が覆われることで、熱環境や水循環にも影響が及んでいるわけですし。
永田:今、廣瀬さんのお話にハッとしました。美しい景観に対する人の価値観は、多種多様ですよね。でも、人間が本当の意味で快適に過ごすことのできる高さ、工法、素材という観点から建物や景観の美しさを考えるほうがずっとしっくりくる。そういう発想にむしろ変えるべきかもしれないですね。廣瀬さんのお話を聞いていると、私の頭の中でもいろいろなことが整理されていきます。

改めて、「風景を読む」ということ。
永田:ところで、廣瀬さんはよく、「風景を読む」という言葉を使われますね。そのことをちょっとお聞きしたいんですけど。
廣瀬:ある場所で仕事をする時には、まずそこがどのような場所であるのかくわしく調べます。行けば、目に映るその場所の姿があります。さまざまなその場所の構成要素は、実はそれぞれ関係しあってそこに存在します。だから、まず、なぜ目の前の風景がそう見えるのか、その訳を一つ一つ考えていきます。仮説が立つところ、全くわからないところなどについて、十分な知識を持っていそうな人を探してお会いしてみたり文献を調べたりしながら、その場所が今そういう風に見える理由を解読していく。そのことで自ずと、どんな要素がどんな風に関係しあって「今」があるのかがわかってきます。次に、じゃあ以前はどうだったのかと、古い写真や昔を知る人の話、あるいは昔の地形図とか土地利用図を見ながら考察します。そこにある自然物と人間がバランスを保つことができていたのはいつまでなのか、ですとか。「風景を読む」作業を通して、その場所、さらには一帯の風土の成り立ちを探っていくんです。
永田:あらゆる角度から探るんですね。
廣瀬:そうです。それをやらないと、その場所の性質がわからない。わからないままに何かをそこに作ってしまえば、後々どんな問題が発生するかわかりませんし、あるいは、そこに住んでいる人やその場所に対する思いを持っている人たちの気持ちを踏みにじることだってあるでしょうし。

主張は徹底的に。専門家として住民の意見の誤りは正す。
永田:たとえば、廣瀬さんの提案に対して地元の人は違う方向が良いという意見だった場合、どんな話し合いをされるんですか?
廣瀬:やっぱり、相手がそう主張する理由をまずは徹底して聞きます。その背景をご本人が論理的に説明できない場合には、こちらから解釈をして、確認します。もちろん相手の意見の方が正しければ僕の考えを変えますが、やっぱり間違ってるなと思う場合には、あくまでもその間違いを指摘します。僕の専門家としての責任として、これなら自分がやった仕事としてお金をもらって良いと言えるところまで主張は続けます。
永田:それでも地元の方との間で意見が折り合わず、仕事を途中で降りちゃうなんてこともあるんですか?
廣瀬:あー、そういうことはないですね、今まで。永田:必ず何か妥協点を探るということですね。住民の皆さんには、皆さんのことを考えて良いものを作りたいんだという気持ちは伝わると思うんですけど、お金を出す側を説得するのは難しいのでは?
廣瀬:難しいですね。あと、たとえば同業者の説得も大変です。あるときは日本最大級の建設コンサルタント会社のスタッフと有名デザイナーを相手に、広場と道路の舗装パターンとか空間の質だとかについて議論し、勝ちました(笑)。
永田:廣瀬さんの理屈のほうが明快だったということですね。
廣瀬:経験や感情でしかモノを言わない、あるいはデザインと美術の関係や、造形がどう行えるのか知らないのに知っているようなことを言う、そういうプランナーやデザイナーの主張ならば、突き崩せます。僕は抽象的なこと、感覚的なことを論理化する訓練をある程度してきていますから。

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▲写真上:廣瀬さんのスケッチ。福島旧大越町(現田村市) 2003年

言葉にできなければ理解できないし、伝えられない。
永田:廣瀬さんの強みは、その訓練をされているところですよね。様々な角度から見ることを習慣づけていらっしゃる。
廣瀬:アメリカ人は何でも言葉で説明するんです。強引であったりはしますけれど。一緒に仕事をしてみて、日本人と比べて、全く説明の技術が違うとショックを受けたことを憶えています。それ以降、好きだからというのもありますけど、解釈の難しい絵や、音楽や、演劇や映画をとにかく観て、聴いて、何がよかったのかを言葉にするということを数年ほどやりました。やらなきゃいけないと思ってやったんですね。
永田:それはすごいですね。私も思うんですけど、言葉って難しい。言葉って伝える道具なんだけど、ときに曖昧になり誤解を生み、恐いものだと思うんですよね。欧米人はコミュニケーションを取るのに言葉を駆使します。主張し相手の意見も聞いてディスカッションをしながら話題そのものを深めていきますが、日本人のコミュニケーションには以心伝心など「言わずとも相手の気持ちがわかる」といった感覚的なものが非常に多いですよね。
廣瀬:そうですよね。それはそれでその良さを解明していかなくてはいけないと思うんですが。でも、たとえばそうした曖昧なコミュニケーションは特に公共事業などでは認められないですよね。税金を使ってやるんですから。理詰めでものを考えて積み上げ組み立てて行かないと。それに言葉で言えなければ自分が認識できたことにはなりませんよね。僕の場合、たとえば冬の日本海で雪雲が発生するメカニズムだとか、自分が理解するために、事実をどういう論法を用いて整理すれば不明点が無くせるかなどに腐心しました。これもくわしい方に教わりながら、ですが。
永田:たとえば、ノーベル賞を取った3人の人が随分話題になりましたが、受賞内容は物理の難しい理論です。新聞の解説を読んだんですが、たぶんもらった資料かなにかをそのままコピペしてるんだろうなという感じで、物理が苦手な私には全く理解できない(笑)。自分が「わかった」言葉で書かない限り、人には伝わらないですよね。
廣瀬:本当に理解していなければ人に伝えることはできないし、自分が良いと思っていないことは「良い」とは伝わらない。
永田:言語化する作業は、どんな事においても必要ですよね。
廣瀬:そうですよね、考えるためにまず必要ですし。もちろん片方では、僕たち美術系の人間は絵を通じて、あるいは手を動かして、三次元をいきなり作りながら何かを決めていくという訓練もしているんですけど。でも、だからといってどちらかがおろそかになっていいということではないと思いますし、やっぱりできるだけ手を使って表現していることを言葉に変換して、齟齬のないようにして伝えるということが求められるんじゃないでしょうか。
永田:ややもすると、絵を描いたりデザインをしたり、手を動かしている人は、言葉よりも感覚を尊重されているように思いますが。廣瀬:そうなりがちです。

デザインとそれを表す言語がズレてはいけない。
永田:廣瀬さんのように、それでも言語化しようと思っている方はいらっしゃるんでしょうか。
廣瀬:そうですね......デザイナーの中には言語化がうまい人はいますね。でも、そのデザインと言語がつながっていない。これは僕も気をつけていることですが、デザインとそれを表す言語がずれちゃいけないんですよね。片方では感覚で片付けて、もう片方では衆人を納得させるような論理を作ることができるようなタイプの人が、わりと世の中に評価されているように思います。でも専門家として見た時に、その造形と言語というか論理がつながっていない。後付けであったり。それはウソ。やっぱりウソがあるものは、人を本当に感動させられないでしょう。
永田:すると、今世に出ていらっしゃる著名なデザイナーや建築家には、それらが上手な方が多いということでしょうか。
廣瀬:僕にはそう見えます。言葉の選び方などはうまいですよね。社会情況のとらえ方やデザインの考え方は浅く、造形の質も低いのに非常に立派なことを言って、この人は賢い、この人はホンモノ、と思わせるような話術を持っている。
永田:悪く言えば、それに騙されている人がたくさんいるということですよね。
廣瀬:そう思います。それは、やっぱり間にマスメディアが入っているから。他人の頭の中で編集されて出てきた言葉に一切の疑いを抱くことなく、ただ受容するばかりの人が増えてしまっているようで。
永田:なるほど。表参道ヒルズなんか施設内に入ると、私をはじめあの坂道がうねるような構造がちょっと気持ち悪いとか、これって快適じゃないよねと思う人がいるわけですよね。なのに、著名な人が設計した、こんなものができたんだと賞賛してしまう、そのあほらしさというか、そこがもう、すでにおかしいと思うんですよね。
廣瀬:みんなお金でつながっているから、批判しないのでしょう。以前、「日経アーキテクチャー」という雑誌に表参道ヒルズの評価についていろいろな方の意見を載せた特集がありました。十数人ほどの中に一人だけ、こういう長大な壁状の建物は表参道に合わないと意見を述べた人がいました。でも、他の人は賞賛の言葉を寄せていました。建築の歴史の学者までが、一番端に同潤館アパートのレプリカを作ったことは新しい手法として評価できる、だとか。
永田:何であれが評価できるんですか。
廣瀬:わかりません。建築史家なのに(笑)。
永田:同潤館アパートそのものを残す方がもっといいじゃないですか。
廣瀬:そうですよね。みんなお互いに褒め合って商売しているのだなと感じました。

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▲写真上:廣瀬さんのスケッチ。福島古殿町 2003年

地道に研究・実践している人に光を当てるために。
永田:なるほど。まあ、自分がどこで足を掬われるかわからないわけですからね。そういう勇気のある人はいないということですね。前によく廣瀬さんがおっしゃっていましたけど、著名な重鎮がまだまだ業界を牛耳っていて、その重鎮の、言葉は悪いですが「子飼い」に仕事が流れていくと。地道に真面目に研究して仕事をしようとする人のところまで仕事が回ってこないというか、そういう人たちに日が当たらない情況ってあると思うんですよね。その情況は変えなければいけないと思うんですけど、何か突破口はありますか。
廣瀬:今僕は大学での講義レジュメを元に何が本当の環境デザインなのかをテーマにした本を書いています。たとえば民俗学、地質学、気象学、生態学、農業、食、あるいは人間行動学から何が学べるか。そしてそれらをどう環境の設計に落とし込まなければならないか。その良い事例はあるのか。そこで出てくるのが一つには古くから工夫されてきた農村の防風垣とか屋敷林。また、世界に名だたる名実共に素晴らしいデザイナーや建築家の仕事だったり。僕が評価する名もない人の仕事と、世間が評価する良い仕事の両方を平等に載せて、まず世の中の人にしっかり見ていただきたいと考えています。
永田:それは、いつ頃完成ですか? ずっと待っているんですけど。
廣瀬:(笑)そうなんです。来年の、できるだけ早い時期には出せないだろうかと考えています。それからもう一つ。生態学的環境デザインに必要な技術を持つ者が集まる有限責任事業組合をつくりたいと考えています。いろいろな角度から、あるいはほとんど同じ角度から、仲間とつねに意見を衝突させ合うやり方で仕事の質を上げていくのが理想だなと。構成員課税なども含めて、私が考えるビジネスにとって有利ではないかとも考えています。
永田:その組合は、もう作られたんですか?
廣瀬:いえ、これからです。4、5人ぐらいのコアメンバーはやっぱり環境の計画設計に携わる人になる見込みです。で、周縁ではグラフィックデザイナーとか食に関わる人だとかそういう人が揃うといいなと。生態学的環境計画、設計を基礎に、本当の意味での地域振興、地域経営を提案できるチームが組めたらと構想中です。古殿町.JPG

▲写真上:廣瀬さんのスケッチ。福島古殿町 2003年

次は、「自然があること」の意味を化学的アプローチで。
永田:面白いですね。最後に一つだけお聞きします。私は10年ちょっとくらい前に、全く農業とか知らない世界からこの世界に入って仕事をしたわけですが、廣瀬さんも環境デザインの仕事をする中で農村とか農業に関わってこられたわけですよね。私は何事にも光と影があると思っています。農村というのは日本や日本人の縮図みたいな所があって、良い伝統とか文化とか、人間関係、コミュニティーを残しつつも、やっぱり、良くない面もたくさん抱えている。非常に矛盾だらけ。一つ何かを解決しようと必ずその矛盾にぶつかって、難しいなと常々感じてきたんですね。でも、廣瀬さんは、その中からでも、それこそ「資源の発掘」なんてすごく上っ面の言葉でやるワークショップなんかがありますけれども(笑)、それとは違う視点で、地元の人たちが見ることができなかったものとか、探すことができなかった良さを引き出していらっしゃる。そこがすごく新鮮。で、その視点でいくと、一見嫌だなと思える部分も、もしかしたら良い方向に転換できるかもしれないという可能性が見えてくるのかなと。
廣瀬:そうですね......光と影の部分を見て、それに対して自分の心をどう整理して農村と向き合っていくか。......やっぱり可能性を感じるから関わるわけですよね。人間関係がすごく複雑で難しくなっていたりすることはあるにしても、それでも、人間が人間らしく生きるために必要なことがまだまだ農村には数多く残っている。人間関係とか人間と自然の関係とか、そういうものを学ぶために大事な場所だと思います。最近、少しずつ化学への興味が湧いてきています。端的に言うと、ちょうどノーベル賞の話題が出ましたけど、分子とか原子とかそういうものが循環し、姿を変えて、水や空気や土や石や、我々人間だとか他の生き物だとかさまざまなものを構成しているわけですよね。たとえば、鮎。このあいだ、釣り好きの方と鮎の話をしまして、昔、天然の鮎が上った川は、川原に降りるとスイカのにおいがしたっていうんです。それは鮎の身体のにおいなんだとか。ところが、今は川の水の汚れから鮎の餌である緑藻が育たなくなったり取水堰に阻まれたりで、鮎が上らなくなった。そうすると、鮎がいないから川のにおいも変わるわけです。結局、コケが生えると鮎が増えるということは、コケが鮎になるわけですよね。
永田:イメージできます。要は、農村には、生き物を構成する要素が多いわけですよね、都会よりも。一個一個の、植物や動物などの構成要素が多ければ多いほど豊かになるし、だからその土地が多様になる。それが、人間そのもの、人間というか、生き物自体を豊かにするということですね。
廣瀬:そう思うんですね。それがひいては、精神にも関係すると思うんですけど、それよりも何よりもそういう場所にいた方が安心ですよね。そこから人間だけを大量に切り離して、金融業など営みながら都市を運営するというのはかなりおかしなことじゃないかなと。豊かな土壌からさまざまな植物が生まれ、その植物を草食動物が食べて......といった循環の中に僕たちはいるわけですし。
永田:そういうアプローチって、すごく面白いですね。というか、説得力があると思います。ちょっと余談になりますけど、先日、ある農業や農村、食に関するシンポジウムのパネルディスカッションでコーディネーターをやったとき、私はパネリストの皆さんに「なぜ農村は必要ですか?」と訊ねたんです。すると、農村は食料を生産するだけの場所ではなく、水を保全したり美しい空気を作るといった多面的機能があるといった「もっともな」「当たり前の」答えが返ってきました。だから中山間地域が必要で、限界集落がなくなるとそこから土地が荒れていくと。でもその説明は実は都会で生活する一般人には納得感がないわけです。農村はきれいな水と空気を作っているんだから農村には金が必要なんだと言われても、それでは都会の人たちは納得しない。自分たちは良いことをしている、正しいことをしているという発想自体が明らかに都会から反発を食らうと、私は話しました。その時、廣瀬さんのことが頭にあったものですから、そのものがなぜそこにあるのか? なぜそこにその樹が生えてるのか? 必ず理由がある。その理由と背景を探っていくことで「理屈」が生まれ、「理屈」で説明できれば存在理由をはっきり主張ができるはずだと最後のコメントで言いました。もしかすると、今のお話にあった物質の構成要素を見ることで、その地域が、その物がなぜそこになければいけないのか、そこに人間が住んでいることに何の意味があるのか、ということを説明することになるかもしれませんね。
廣瀬:今、山が荒れてしまっているから動物が里に出てきますよね。マタギの研究をやっている同僚が、山で杉や檜が放ったらかしにされ生産力がなくなり、クマとかイノシシが出てくるようになったと。人間が里山で暮らしている時はそれが中間領域となり人間と動物がお互いに接触しないで済んでいた。でもその中間領域がなくなって山が荒れ、山の動物が里に出てくると今度は害獣扱い。農村というのは自然と人工領域一種の「緩衝地帯」だと。僕の住んでいるアパートは築30年を優に超す建物で、クモなどたくさんいます。1週間ぐらい留守にすると、バルコニーの植木鉢にアリが居着いて、部屋の中に入ってきたり。でも人間が生活していると、彼らは引っ込む。雑感に過ぎませんが、やっぱり人間が動いていて何かをしていることが他の生き物に対する圧力、抑えになっていたりするのではないかと思います。たとえばダムなども、水が溜まっているだけのようでいて、一部は冷温で低酸素になり、ひいてはダムの周囲との間で栄養素の収支が変わってしまう問題があります。
永田:ダムに水を溜めておくと、水の質が変わっちゃうんですか?
廣瀬:はい。表層の水は、川に流れている水に近いと思うんですけど、底の部分というのはずっと冷たくなるんですね。で、酸素も少なくなる。河川とは異質の植物プランクトンの繁殖があったり、上流から下流に流れるはずの栄養素が蓄積されていったりします。そこで物質循環系が変わってしまうので、水底に溜まった物質がどうやって周囲の森林環境に還元できるなど、これから考えていかなければならないようです。山形県天童市のダム委員会メンバーにもなりまして、そこで今建設中のダムの建設後の環境について、研究者や地元の人といろいろ考えていこうとしています。そういうことが今、身の回りで起こっている一方で実体のない金融問題に人間が振り回されていたり。人間は砂上の楼閣のようなところに生きているんだなぁと思う昨今ですが、しかし農村には自然物が多く残っている。自然が残っているというより、もっと根源的なことを考えると、人間や他の生き物の身体を成す物質があって、それらが関連しあう中で人間は生かされているのではないかと。それをもっと言葉にして知らしめないと。と、最近、ニュースを聞きながら思いました。組合へ生物化学の分野の専門家を迎えられたらとも考えはじめました。そうすれば、かなり細かく生態系を見られるんじゃないかなと。
永田:うーんなるほど、おもしろいですね。廣瀬さんの興味・関心はさらに深いところへ向かっているんですね。次にお話を伺うのが楽しみです。きょうはどうもありがとうございました。

廣瀬 俊介(ひろせ しゅんすけ)

1967年市川生まれ。環境デザイナー・東北芸術工科大学建築・環境デザイン学科准教授。東京造形大学造形学部デザイン学科II類卒業。株式会社GK設計勤務を経て2001年より風土形成事務所主宰、ドイツ遊学。2003年より現職。生態学的環境デザインを基礎に、現在は公園や街路などの設計から地域における環境経営の企画まで活動を展開。著書『町を語る絵本飛騨古川』、共著『都市環境デザインの仕事』など。ドイツの行政機関や大学、台湾の大学で講演も行う。

 

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